秋葉原に残る大食い食堂と青果市場の歴史

大食いと青果サムネ
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秋葉原には、今年閉店したかんだ食堂を始め、ごはん処あだちのような大食い定食屋がいくつかあった。
秋葉原になぜ?ネタ系飲食店?と思われるかもしれない。
だが歴史を遡ると、今の秋葉原の住人の方が新しく、彼らのほうが先住なのだ。
その理由は遠く、江戸時代まで遡る。

■その前身は神田青物市場、神田須田町から始まる

慶長17年(1612年)、江戸幕府が増大する江戸市中の人工と食糧需要に対応するため、伊勢松坂の青物商人を呼び寄せた。続く慶長18年、さらに伊勢松坂の伊勢谷長兵衛を江戸に呼び、神田多町に住まわせた。(河合敦監修 江戸の暮らし辞典)
彼らを中心に青物市場が形成され、その規模たるや広大に広がっていった。神田川沿いの河岸に現在もいくつか名残が残る荷揚げ場があるが、その河岸からの荷揚げ品や、日本橋川の鎌倉河岸からの荷揚げ品などを扱っていたそうだ。
神田須田町に残る案内板によると、広さは1万5000坪(49500平方メートル)というからとんでもない広さだ。
とはいえ、当時の青物市場は卸売の商店が軒を連ねる形で、現在の市場とはまったくイメージが異なる。巨大な八百屋の集合体という感じだろう。

■江戸三大やっちゃばの一つだった神田青物市場

千住、駒込にも同様の市場が存在し、江戸三大やっちゃ場と呼ばれていた。
水運や陸運に長けたエリアで、それぞれの特色を持っていたので、扱う商品にも特徴があったという。
内陸からの輸送が多い市場は、とれたての土がついた野菜を扱うため土市場と呼ばれたり、逆に川からの荷揚げが多いエリアは魚や遠くからの物資が多かったりと、市場ごとに住み分けがされていたようだ。
神田青物市場はそのまま大正まで残るが、昭和に入り、秋葉原へと移転した。

■昭和3年、秋葉原が青果市場となった

秋葉原は過去数回、大きな火災に見舞われている。その火災を納めるため、火除け地として広大な広場を作り、秋葉大権現が置かれていた。
その場所が通称「秋葉っ原」、そう、今の秋葉原の名称の由来だ。
秋葉大権現は現在は台東区に遷座し、秋葉神社として当地を見守っている。
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さて、この秋葉っ原に、昭和3年、東京中央卸市場神田分場、通称「やっちゃ場」が整備された。
関東一円から集まる青果を、東京の各地に届ける巨大な流通の要所だ。
神田青物市場はここで、秋葉原のやっちゃ場に姿を変えた。
現在のUDXがある一帯は、広大な青果市場だったわけだ。

■やっちゃ場は重労働、集まる人々は秋葉原で食事をとった


やっちゃ場は超がつく重労働で、野菜を担ぐアルバイトをしたが1時間で音を上げて逃げたという話はほうぼうで聞く。
そんなやっちゃ場の男性はエネルギーの消費が激しいため、とにかく食べた。
食べて食べて食べまくる、その名残が秋葉原にいくつか残る大食い食堂なわけだ。
現代のアキバの住人ではとてもではないが食べきれない量が、普通の量として出てくるからとんでもない。
しかし、当時はエナジードリンクなどなかったため、大量の白米を食べることで凄まじいエネルギー消費を耐えていたわけだ。
一升飯が当たり前と聞くと震えてしまうが、ごはん処あだちのご主人に聞くと「昔の若いもんは足りない足りないと山盛りおかわりした」という。

■やっちゃばは今、名前だけを残し消えてしまった

神田青果市場跡地
非常に盛況だったやっちゃ場だが、経済の成長とともに都心部の土地需要や流通の変化もあり、1989年に姿を消す。
再開発された場所にはUDXが建設され、やっちゃ場の名残はひっそりと植え込みに設置された記念碑だけになってしまった。

ちゃばら
2010年頃までは秋葉原駅から御徒町駅の間にある高架下にやっちゃ場の名残である店舗名などが残されていたが、それも高架下再利用のための開発で姿を消し、当時を偲ぶ名残は「ちゃばら」「やっちゃばフェス」の名前だけになっている。



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