秋葉原の「人」に聞く第10回・NPO法人リコリタ~真田武幸~
秋葉原で活動する人々や、秋葉原で働く人々にインタビューを行い、胸に熱く滾る秋葉原愛をお届けするという企画となっています。
また、インタビューを行った方からお友達を紹介していただき、秋葉原の輪を繋いでいこうという趣旨もあります。
第10回目の今回は、秋葉原で様々な施策を行うNPO法人リコリタから、真田武幸さんにお話をうかがってきました。
↓秋葉原の人に聞く第9回はこちら
NPO法人 秋葉原で社会貢献を行う市民の会 リコリタ理事長・真田武幸
今回のインタビューは人に聞くでは珍しく、フライングスコッツマンで行いました。
うだるような暑さの中、キンキンに冷えた店内とアイスコーヒー、そして秋葉原でも屈指のパンケーキをお供に真田氏から様々なお話をうかがってきました。
秋葉原で社会貢献を行う市民の会とは?
長年秋葉原で活動を続ける真田氏のルーツとは?
フライングスコッツマン
〒101-0021 東京都千代田区外神田4丁目2-6 AKIBA426ビル 3F
03-3525-4899
秋葉原で打ち水をはじめて20年
Q
本日はよろしくお願いします。
早速ですが、秋葉原で活動を始めてどれくらいになりますか?
A
打ち水大作戦がはじまったのが2003年。
2004年から秋葉原での打ち水を立ち上げたので、今年で20年になりますね。
Q
20年はかなりの長さになりますね。
打ち水を行ったきっかけは何になるのでしょうか?
A
きっかけとしては、国土交通省の道路事業の広報企画案件でした。
自分は行政などの広報プロデュースを本業としているんですが、当時道路行政のお仕事を手伝ってて、その中で共同溝という事業の広報企画をやっていたんです。
その流れで道路舗装の関係部署からも相談を受けました。
アスファルトって日の光をめちゃ吸収しちゃって熱くなるのですが
遮熱性舗装という特殊な塗料で日の光を反射させて吸熱しないようにするという舗装があって。
その舗装のPRをするのに打ち水が凄く良いと言われまして、打ち水の企画を考えてくれと言われました。最初のきっかけは道路事業からだったんです。
Q
そこから秋葉原の打ち水に繋がるんですね
A
ただ最初から秋葉原ではなかったんです。
銀座で舗装を行ったので、まず初めは銀座の歩行者天国からでした。
一気に広がる打ち水企画、そこから秋葉原へ
Q
最初は銀座の打ち水から、道路事業のPRとしてはじめて
秋葉原へはどのように繋がっていったのでしょうか?
A
銀座で打ち水を企画するために打ち水大作戦本部というところに顔を出して相談したんです。そうしたらそこにいろんな打ち水をやりたいと言っている人たちが集まっていて。みんなが「次はあそこでやろう」「ここでやろう」と盛り上がっていました。
そのようななか、当時の学生さんが国会議員がやったら色んな人たちに活動が広がるね、と言い始め、本当にそんな事ができるのかなと見ていたら、彼らの仕掛けで国会議事堂前で打ち水が行われる、という話が実現しており進んでいくのを目の当たりにしました。
そこで、ふと、自分は人に頼まれて銀座の企画を頑張って考えているけれど、本当は違う場所でやりたいな、と思っている事に気が付き、
その後色々と相談をしていく内に、本当は自分が大好きな秋葉原でやりたいということに気付いたんです。そこから企画を立てはじめて、3ヶ月でうち水っコがスタートしたという感じです。
かなり色んな展開がはやかったですね
Q
今では神田明神で大々的に行うイベントまで成長しましたね
A
最初はささやかに、桶持ってみんなで公園に集まってって感じでした。
2年目にはすぐそこ(ダイビル前)でやっていました。
まだ駅前広場のロータリーが工事中で、UDXも出来ていなくてダイビルしかない状態。
その時、ダイビル前で工事中になっているロータリーでできたら面白いなって思いついたのですが、まずここの持ち主は誰だろう?となりました。
色々調べて担当の方達と話している内に
「我々が道路持っているわけじゃないけど、地域として応援しますよ」
「女性の方が着替えたりするの大変でしょ? 会議室貸してあげますよ」
「集合場所ならダイビルの下とかがいいんじゃないかな?」
といった感じに話が進んでいきました。
我々が希望するイベント日と工事期間等の調整も上手くいき、開催する方向になりました。
最初は思い付きで始めたのですが、結構大事になっちゃったみたいな(笑)
千代田区の公園で集まってやるという時も、法律とかわからないままだったので区に相談したんですけど
「悪いことするわけじゃないから良いのではないか?」
となりましたし、ゆるい感じというよりも皆さん応援してくれる感じで協力してくれていました。
その他にも色々と教えてもらい、街中挨拶にいったりと大変でしたね。
Q
結構飛び込み営業みたいな感じでやっていたんですね。
営業系って得意でした?
A
広告の仕事の中でも、制作の方でしたから全然得意じゃなかったですね。
優しい人が多かったので、人に助けられたというのが強いです。
真田氏の秋葉原系の入りは…
Q
リコリタの活動のお話は色々聞かせて頂きましたが
真田さんの秋葉原といえば何だったのでしょうか?
A
まずは小学生の時、最初にファミコンでした。
そこからパソコンに憧れもあって…MSXとかやってる友達とかいたんですけど、昔のパソコンは高価だったので私はできなくて…友だちがMSXに飽きたというので格安で譲ってもらい、のめり込みました。そのあとお金をためて中古でFMタウンズなどを購入したのですが、もの足りなく…
高校受験のとき「志望校に受かったらパソコンを買ってあげる」って言われて、それでPC98を買ってもらったんですよ
当時のカラーのノートパソコンを、50万くらいしたかと思います。
本当に申し訳ないですね(笑)
Q
昔のパソコンは高かったですからね。
一式合わせて100万とかザラで…
A
で、ちょっと前後するんですけど、中学生の時の理科の先生がパソコン通信を教えてくれたんですよ。
パソコン部の先生だったんですけど、部員ではなく私にモデムをくれました。
「真田君ってこういうの好きだよね」って言われて
私はパソコン部には入ってなかったんですけど、部の人達と仲が良くてしょっちゅう顔を出してたら何故か…
その先生のお古をもらったのですが、もう凄い回線スピードも遅くて(笑)
Q
そこからドハマりしていった…と
A
そうなんです。
パソコン通信とか、そういうのが大好きだったのでアキバに通うようになりました。
パソコン通信で仲良くなった人達とオフ会をやったり…たくさん色んな所に連れて行ってもらったりもしましたね。
その頃はあまり同級生と遊ばないで、そんなことばかりしてましたね。
Q
パソコン通信とか、インターネットって言葉が出てきた頃が濃い感じ?
A
そうですね、秋葉原のルーツと言えばPC・ネット関連が濃いかもしれないです。
もちろんWindowsになってからもずっとPC系は好きでした。
ただ、ゲームとかやってたりしてハードディスク足りないなとかなれば増設したり
メモリ足りないから入れるかみたいのではなく、交流とかそっちの方が好きでしたね。
マシンの動きとかパワーとかじゃなくて、多分交流してるのが楽しかったんだと思います。
そこから参加する側よりも、参加してもらう側にの方に力が入るようになりました。
とは言え、気分的にはオフ会のままなんですよ。
打ち水もそうですけど、マイクのあるオフ会みたいな感じですね。
自分の好きなもの同士、大きな会場でビシっとやるよりも終わった後に「面白かったね」って言い合えるような
「次の夏も台風が来ないといいね」みたいな
第10回、秋葉原の「人」に聞くを終えて
今回は秋葉原で様々なイベントを打ち出している、NPO法人リコリタから真田氏にお話をうかがってきました。
秋葉原文化のひとつにオフ会というものがありますが、ルーツを辿っていくと「人」と何か交流を行いたいという想いがあったように見受けられました。
オンラインで気軽に繋がれる今だからこそ、秋葉原という現地で直に人と繋がれる多くのイベントの開催も期待していきたいですね。